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先行き不透明なブログ?(仮題)

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ほんの少し考えてみた

 昔、私は冬になると霜焼けになりました。でも、小学校卒業頃にはならなくなりました。
 小学校卒業後、私は某呼吸法を始め、身体がおかしくなりました。「偏差」と呼ばれる副作用です。冬でも半袖で平気なほど熱いのに、何か冷えている感じでした。その後、何年かして(1~3年だったでしょうか)「冬でも半袖で平気」な症状は治まりました。でも、冷え症が始まりました。本を読むと、冷え性の原因は「血行不良」だと書かれています。
 霜焼けの原因は「血行不良」、冷え性の原因も「血行不良」……「冷え性の人に霜焼けが多い訳ではないぞ?……霜焼けだから冷え症って訳でもない……。本当に霜焼けや冷え性の原因は血行不良なのか?」……10代の頃の私の大きな疑問でした。

 20代に入ってからも私は冷え性でしたが、10代の頃の私の冷え性は、20代に入ってからと違い「手が冷たい」時もあれば「人が驚くほど手が温かい」こともありました。20代に入ってからの私の冷え性は「普通の冷え性」だと思いますが、10代の頃の私の冷え性は、あまり聞かれることのないケースでした。

 本当に冷え症の原因は「血行不良」なのか?……そんな疑問を抱いていた時、私は冷え性の原因について「血行不良」とは全く違う話を聞きました。誰が言っていたか覚えていませんが「冷え性の人は、寒かったり冷たかったりしても血管が縮まらず、血管が拡がったままなので、体温が逃げてしまうために冷える」……当時の私は目からウロコが落ちた思いがしました。

 普通の冷え性の原因の説明「血行不良」は「血管が拡がらないため、血液を介した体温供給が不足する」という意味だと思います。でも、当時「血管収縮による体温供給不足」では「冷たい時もあるけど、人一倍、温かい」ことを説明出来ないように感じました。ですが「血管が拡張したまま収縮しない」という説なら説明可能だと思ったのです。
 冷え性は「血管が収縮したまま」なのか「血管が拡張したまま」なのか……それとも、冷え性には「血管が収縮したままの冷え性」と「血管が拡張したままの冷え性」の2種類があるのか?」……そして「血行不良」の意味は「血管の働きが正常ではない→不良」の意味なのか?……結局、どれが正しいにしても私はそれを確認も証明も出来ません。本や人の話を借りてきて説明出来るかも知れないけど、それは他人の誤りを利用することになるだけかも知れない……「確認・証明しようと思ったら研究者になるしかない」……10代の頃の私は、そう思いました。でも、研究者になることは出来ないし、なろうとも思いませんでした。一般レベルでは「『科学』も『信仰』に過ぎない」ということです。

 オーリングテスト(O-リングテスト)というものがあります。正式名称を「バイ・デジタル・オーリングテスト(Bi-Digital O-Ring Test)」といい、大村恵昭教授が創始したもので、基本的には「身体の不調原因を調べる」ために利用されているテストです(以下「オーリング」)。
 特許を保有している大村恵昭教授の許可なく「オーリング」の名称を使うことは出来ませんが、その有効性は広く認知されており、類似の方法に様々な名を冠したものが流布されており、「オーリング」そのものは反オカルトの旗手、O槻教授(←伏せ字になってないな)も認めていると言われています。
 オーリングは世界的には医学的方法として利用されたりもしているようで、日本でも正式な「オーリング」の講習会が開催されていますが、参加できるのは医師や歯科医師など公的資格を保有する人に限られています。

 オーリングテストは、「生体は『センサー』である」という「発見」に基づいた「無意識下の筋肉の緊張」を利用したもので、原理的にはダウジングなども親戚と言っても構わないでしょう。

 正式な「オーリング」では「占いや相性診断などに用いることは出来ない」とされているのですが、類似の方法では「この食べ物は身体に合うか?」という「相性診断」と言えるものや「潜在意識も筋緊張に反映される」という理論に基づき「潜在意識にコンタクトして将来を選択する(自分の運命を身体に訊く)」といった「占い」と言えるものにまで利用されています。

 正式なオーリングでは「占い」や「相性診断」は否定されていますが、それらにオーリングに類似するテストを利用すると、確かに、何らかの反応を示しているようですし(正しいかどうかはともかく)、どこまでがオーリングの適用となるのかを明確に定義するのは難しいでしょう。

 先に書いたように、オーリングに類似するテスト(正式なものではなく類似するもの、及び、筋反応を利用したもの)を利用している団体は数多くあります。私は正式なオーリングについては、よく分かりませんが、オーリングに類似するテストを押しなべて見てみると、全く違った理論で活用されているケースが少なくありません(「少なくない」というより「ほとんど」でしょう)。
 それは全く違った方法論の中で利用され、それぞれが、それなりの成果を収めています。それは全く違った背景を持ち「原因」についても全く違った見解を持った民間療法などにおいてもオーリングに類似するテストは利用され、何らかの反応を示し、それぞれが、それなりの成果を収め、それぞれの方法論を主張する人達の確信を深める結果となっています。これは、一体、何故なのでしょうか?。

 私は「オーリングは絶対的な反応(回答)を出している」というより「質問・疑問に対して選択的な回答を導き出している」のだと思います。それはダウジングや占い、チャネリング、霊視などについても同じことが言えると思います。
 オーリングに類似するものと同じように、占いやチャネリング、霊視も「同じもの」を鑑定しても、人によって全く違う答えが導き出されているものの、それぞれが、それなりの成果を収めています。
 しかし、それは身体の状態や、水脈や紛失物の探索など、現在、既にあるもの、あるいは、起こっているものに関して利用する限りは、それなりの成果を上げているかも知れませんが、宝くじや運命など、未来に関しての利用では、途端に精度が落ちるようです。それは霊能などでも同じで、過去を見て何かをする分には、それなりに成果を上げたとしても、未来に関してのことや「誰も答えを出せそうもないこと」に関しては途端に精度が落ちるようです。これは何故なのでしょうか?。
 一般的には「運命は変えられるから」と言うでしょう。でも、私には、そうは思えません。何故なら、そもそも「未来によって運命が変えられる」以前に、オーリングに類似するもの、占いやチャネリング、霊視などによって導き出された答えは、全ての術者間で同意されたものではなく、既に現在において、術者ごとに違っているからです。

 オーリングに類似するものの場合、術者が持つ方法論によってテスト結果が違っているように思います。これについて、私は「オーリングに類似するテストを受けている人の身体」だけで反応・結果が出ているのではなく、術者との関係によって反応が生まれているのではないかと思っています。
 それは「信じている人」には効果を示しやすいものの、「信じない人」には効果を示しにくいという「気功師」と「気功を受ける人」との関係に似ています。
 私は、それらは「人によって起きるもの」なのだと思います。だからこそ、術者の方法論が様々でも、術者の方法論に応じた結果・反応が出るのだと思います。
 霊能者が過去生を霊視したりして癒されたりするのも同じです。それは霊能者が言うことが必ずしも当たっているからではないし、民間療法家が「治せる方法」を見つけたからといって、それが「真理・真実をつかんだ」訳ではないのだと思います。

 「現象」は必ずしも「真実・真理」ではないと思います。オーリングに類似するものによって「身体の不調原因を調べる」ことが出来るのも、身体のことは身体が知りうるからだと思いますし、ダウジングなどによって水脈などを探知できるのも「既にあるものの何か」を身体が感じているからなのでしょう。
 私は「治る」「癒される」という「結果」をもって、霊視やオーリングに類似するものが「正しい」とは言えないと思います。それは「未来に関しての利用」では、途端に精度が落ちることが示していると思います。
 そして「誰も答えを出せそうもないこと」に関して精度が落ちるのは「知らないもの、分からないもの、理解できないものを言い当てることは出来ない」からだと思います。「どんなに勉強しても理解できないこと」を誰が言い当てられるでしょうか?。
 私は「直感や感覚は価値観や思想に導かれ、経験によって磨かれる」のだと思います(どうやら、最新脳科学でも同様に言われているようです)。
 競馬や競輪などで、ベテランが勝敗を当てられないものを初心者が言い当てる「ビギナーズラック」と呼ばれる現象もありますが、それは選択肢が限られている中からの選択(選択肢が多過ぎると選択を止めてしまう=どれでも良くなる)において「思い込み」が少ないことによるメリットが生きた時に起こるものに過ぎないと思います。
 知識や情報から「選択しよう」とすることが思い込みとなるのに対し、初心者は、その知識や情報の少なさから、偶然、良い結果をもたらすものを選ぶこともあるというだけです。情報も知識も関与できない選択を行えば、経験者も初心者も差は無いでしょう。
 どんなに直感に優れた人でも、それが将棋の駒の動かし方を知らない人であれば、将棋における、ある局面で、次の最善手を言い当てることは出来ないのと同じです。プロの将棋棋士が次の手に困った時、誰もが驚く妙手が直感的に浮かぶこともありますが、いかに本人さえ驚く妙手であるとしても、その直感を生み出すものは本人の将棋観であって、他人の将棋観ではないはずです。
 もちろん「直感や感覚は価値観や思想に導かれ、経験によって磨かれる」と言っても、ただ闇雲に経験を積めば直感が磨かれるというものではなく、経験や知識におぼれることのない「柔軟性」や「物事への注意」が必要なのは言うまでもありません。「マインドサイト仮説」では「第六感」の正体は「わずかな変化への気づき」だとしているのは我が意を得たりという思いです。最近では「アハ体験!」で有名な「チェンジ・ブラインドネス(Change Blindness)」というテストもありますので、ゲーム感覚でお試し下さい→リンク

 気功師や霊能者など、超能力者に類する人達を見ていると「弟子の話は師に似ている」ことに気づきます(当ブログ関連項目=「成長」)

 治療すると「患者の邪気を受ける」という師の弟子は、師と同様の主張をし、「邪気の影響を受けない」と主張する師の弟子は、やはり師と同様の主張をします。
 ほとんどの場合、「邪気に気をつけなさい」という師の弟子が「邪気の影響は受けません」とは言いませんし、「邪気の影響を受けない」という師の弟子が「邪気を受けないなどということがあるはずがありません。やっぱり邪気を受けるので気をつけています」とは言いません(複数のメソッドに精通しているような人は除く)。
 そのことについて、10代の頃、私は「考え方によって感覚や方向性、スタイルを得るのか、師弟間で能力が伝染したり、『場』が人を作るのではないか?」と考えていました。
 しかし、オーリングに類似するものでも「方法論の違い」によって結果が変わっていることを考えると、それは能力の伝染や場が人を作るというより、考え方や思想、理論、感性などによって違った答えが出ていると考えるのが適当だと思います。

 それは身体についての情報や手技療法などの民間療法、気功などのエネルギーワークなどについても同じです。言うことは様々で諸説紛々・・・・。それらは「それなりの真実」と「それなりの誤り」を含んでいるとしても、言っていることが正反対のことも少なくありません。
 それでも、それぞれにおいて「治った」「改善した」などと言う人がいて、それぞれ支持する人達がいる・・・・・。手技療法などを見ていると、同じ症状でも、様々な方法で治している人がいる……。

 スゴい人は「真理を追求」します。結果が出せるから「結果」を追求して、結果が得られたら、それが「真理だ」と思い込みます。つまり「方法」を通して「真理」を見ようとします。でも、私は何も出来ないから何も結果は出せません。何も出来ないから「結果を出す方法」は何もありません。だから「結果を出せる人達」を見て「結果は出せる人達の方法が違うのは何故か」を見ようとしました。

 その時点で、私は「どれが正しいか?」「誰が正しいか?」などと「唯一絶対」を見極めようとしたり「スゴさ比べ」で「真実」を見極めようとするのはやめようと思いました。「唯一」を見出すには他の全てを排除せねばなりませんが「良い結果が出た=正しい」とすれば、良い結果を出している人は「正しい」ことになり、主張を異にする人が結果を出している以上、「最もスゴい人」以外の人は「誤り」という訳ではないのですから、「唯一の絶対」を見出すことは不可能だと思ったのです。だとすれば、それらは全て「いくらかの真実と、いくらかの誤りを含んでいる」と考えるのが自然です。

 そして最後まで残る問題が「正反対の理論や技術で結果を出している人がいる」ということです。そこで抱いた疑問が「真理は1つじゃないのか?」というものでした。
 結果を出せる人達は「真理は1つ」だと思って、それを追求しようとします。そして、結果を出せる人達は、その方法論の違いを「真理という1つの山を、色んな人が違う方向から登ろうとしている」と説明したりします。でも、ある理論に対して正反対の理論が存在し、そのどちらもが、それなりに成果を収めているのを見ると、そうは思えませんでした。私の探求は、そこから始まりました。
 そして思ったのが「どちらが正しいか」ではなく「どちらも間違っていない(「正しい」のではなく「間違っていない」)」のではないか?。「正しいかどうか」ではなく「論理的、あるいは技術的に、どれほど整合性を持たせられるかによって治癒・改善の度合いが違うのではないだろうか?」と思ったのです。

 彼らは、実際に何かを感じており、それに従った「何か」を行うことによって結果を出しているのでしょう。そこで「感じているもの」は、勘違いであれ何であれ、実際に感じているのですから「間違っていない」のでしょう。でも、それが「=真実」ということではないと思います。
 私は「間違ってないけど真実じゃない」ものを「事実」と呼んで「事実」と「真実」を区別します。「感じている」のは「事実(間違いない)」であっても「真実そのもの」を感じているとは限らないからです。

 私は整体を勉強中ですが「スゴい人をハシゴすればスゴくなれる」などとは思ってません。「スゴい人」と一口に言っても、みんな言うこともやることも違います。結局「やる」のは自分であって、他人ではありません。自らの行いは自らに基づくので「何人のスゴい人をハシゴしたか?」ではなく、自分のやろうとすることに整合性を持たせられなければ、結局、何も出来ないと思っています。

 整体師が「治せるかどうか」というのは「施術者自身が自分の施術にどれほどの整合性を持たせられるか」と「患者さんの身体において、どれほど整合性があるか」によって結果が違ってくるのだと思います。逆に言えば、いくら正しくても施術者自身が、自分の施術に整合性を持たせられなければ治せないのだと思います。

 「スゴいことが出来るからスゴい人」なのか「スゴい人だからスゴいことが出来る」のか……。私は後者だと思います。だとすれば、スゴい人に教えを請い、真似をすればスゴくなれるというのは全くの幻想に過ぎません。「スゴい人」が「スゴい」のは自らの見方に基づく深い理解と、自らの行為に深い整合性を持たせたことに端を発しているのだと思います。そういう意味で「スゴく」ならなければ「スゴい人」にはなれないのだと思います。手順さえ守れば、真似さえすれば「できる」なら、しっかりと仕込めばサルでもスゴくなれるというものでしょう。

 私は、身体についての理論や技術は「正しいかどうか」なんて、どうでもいいし、そんなのは誰にも分からないと思っています。私は、自分が持つ整合性によって理解や感覚が形成され、その整合性が力を持ち、経験・体験・結果となっているのだと思います。
 結果が出せる人ほど、妙な万能感が生まれてしまい「真理は1つだ。真理にたどり着く道(治せる道)を探そう」と思ってしまうんだと思いますが、私は「これこそが正しい」と言っている人は「間違っている」か「錯覚している」か「ウソを言っている」の、どれかだと思います。スゴい人は結果が出せるので「自らの整合性によって感覚や結果、現象を作り出している」ことに気づかず「これが正しい」と、自分がやってることを真理だと思ってしまうのでしょう。

 また、気功などで「信じない人が相手なら効果が出にくい」ということがあります。それらの効果は術者が一方的に働きかけるものではなく、術者と被術者の関係によるところが大きいということだと思います。それらには、あまねく、人を癒す「普遍的な力」があるというよりも、やはり、現象、体験、経験、結果は人に力を与えられて起こることを示しているのだと思います。
 一般的には、それらの技術や方法論などは「普遍的な力があるもの」「普遍性を見出すべきもの」として扱われがちですが、私の視点は技術や方法論の側にあるのではなく、人の側にあります。

 私は「直感や感覚は価値観や思想に導かれる」のだと思います。当然、それは術者の側にとっても、被術者にとっても同じです。いくら、術者の技術自体に高い整合性があろうとも、相手の身体が、それとは違う論理(身体が主張する論理)を持っているということもあると思います。それは、両者の一致が最高の結果をもたらすことになるのでしょう。
 普遍的な「力」が部分的にはあったとしても、そこに焦点が合わず、自分との整合性がなければ結果が出ることはないでしょう。だからこそ、「様々な論理を持つ身体」に対応できる幅がある技術や方法論は有効率が高いのでしょう。

 私は「直感や感覚は価値観や思想に導かれる」というのは明らかだと思います。それは当ブログの「成長」で書いた「近似死体験(いわゆる「臨死体験」。「Near-Death Experience」の訳であるため「臨死」より「近似死」の訳が適訳との主張に沿って「近似死」の語を採用します)が、体験者の文化的背景の影響を強く受けるということでも分かると思います。

 現象や結果には必ず人が関わっています。人を離れて現象や結果(超常現象を含む)は出てきません。人と関係ないところで起こっているなら、それは無意味です。
 私は、現象や結果は人が生み出しているのだと思います。どんなに間違っているカルト宗教でも、そこで修行していると神秘体験をすることがあります。「間違った教え」でも「神秘体験」を経験するのは「正しいかどうか」ではなく「そこ」に本人が「力を与えている」ということを示しています。人が「それら(現象や結果)」に力を与えているのです。「では、それらに力を与えるのは何なのか?」を考えて得られた答えが「思い込み(信仰)」「整合性」でした。
 「正しい」か「間違っている」かは問題ではなく、それがどんな錯覚であれ「本人の中で整合性を持っている」「整合性を持たせている」かが問題になるのだと思います。それは「整合性を持たせる」ことによって力が与えられるということです。だからこそ、自信にあふれている時は結果を出すことができ、迷いが出た時には結果が出ないのでしょう(焦点がぼやける)。
 もちろん「整合性」がカギになるとは言っても、最初から整合性を持たせられる訳はなく「共感」を入口として整合性を構築していく作業が、何らかの理論や技術を「身につける」作業なのだと思います。私は自らの整体学習を、そのように捉えています。

 某霊術家は「仏教では『色即是空、空即是色』という。しかし、空が直ちに色であるならば、空と色に分ける必要はない。空は色を生じるが、空は直ちに色ではない」と言いました。「空」が様々な「色」を生じるのだとすれば「経験や体験、結果が正しいとは限らない」ということになります。
 量子力学では「観測者によって結果は変わる」と言います。思い込みであれ錯覚であれ、人によって見方も考え方も方法も違うのは、ある種、当然だと思います。
 それならば「正しいかどうか」ではなく「どれほど整合性を持たせられるか」というのは大きな鍵になるはずです。それはありとあらゆることに通じていると思います。

 理論的にであれ、感覚的にであれ、人間は何らかの整合性を持たせて理解しようとします。無秩序に起こることを理論化することは出来ませんし、人は、整合性がないものを理解することは出来ません。そして、理解できない情報は排除するでしょう。「スゴイ人」「スゴイ技術」「スゴイ理論」に師事しても自分がスゴくなれる訳ではないこと、そして、オーリングに類似するものなどや占いなどで「知らないこと、分からないこと、理解できないことを言い当てることは出来ない」というのは自明の理だと思います。
 人間は理解できることに焦点を合わせて生きているので、自らの整合性・焦点に応じた感覚を身につけ、感じ、それに応じた体験をするのだと思います。ある種、人は「勘違い」で生きているのかも知れません。
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  1. 2007/04/03(火) 23:32:25|
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